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先日、TVで金子みすずの生涯をドラマ化した番組がありました。私が金子みすずの存在を知ったのは、2年ほど前でしょうか。やはりTV番組か何かで取り上げられたことから、静かなブームとなり、復刻(?)で、詩集がいくつか出版されました。そのうちの1冊を知己の勧めで読んだのですが、そのすばらしさに感銘を受け、ファンになったひとりです。
私は金子みすずの感性を凄いと思いました。これまで出会ったどの詩人よりも、卓越した感性を持っていると。
たとえば、石川啄木には石川啄木の良さがあり、中原中也には中原中也の良さ、というものがあります。それはどちらが優れているとか劣っているとか比較できる類のものではないと思います。しかし、啄木にしろ中也にしろ、人の心の襞や内面のドロドロした“何か”を天才的に詩という形状に表現しています。
金子みすずの詩はちょっと違っていて、表現も着想もとても幼稚(というか、おさない)です。その幼さと、感性の鋭さがあいまって、非常に独特の世界を醸し出しています。読んでいると何でもない表現なのに、「ああ・・・」と唸ってしまいます。
さて、その金子みすずですが、26歳という若さで自ら命を絶ったということは私も知っていました。しかし“何故”というところに誤解がありました。私は金子みすずを相当に誤解していまして、いつの間にか“金子みすずは孤独の詩人”になっていました。そして、親戚の勧めで結婚したものの、嫁いだ相手がやくざな男で、「詩なんぞ書くな!」といわれたことに煩悶し、誰に助けを乞うこともできず、自ら死を選んだと。
でも、どうやら違うようです。金子みすずは決して孤独ではなかったし、確かに「詩なんか書くな」といわれたようですが、結局離婚しているので、詩を書き続けることはできる状況にあったわけです。しかし、金子みすずは死を選んだ。どうやら、やくざな男(旦那です)に、愛娘を奪われようとしたことへの抵抗だったようです。当時の法律では、夫婦が離婚した場合、母親には親権がなかったそうです。どんなにやくざな父親でも、父親というだけで、その子の親権を獲得できる時代です。金子みすずは、そうした社会を「間違っている」と批判します(ドラマの中のことで、本当にそんな会話があったかどうかはわかりません。おそらくなかったろうと思いますが)。幼い詩情に反して、なんと強烈な意思表示でしょうか。彼女の生き様と、彼女が紡ぎだした詩の世界との、こうしたコントラストも、私をして金子みすずに興味をもたらしめる大きな要素となっているようです。
私は自分の娘たちにも金子みすずを読ませました。ちょっとした興味は示したものの、それほど深い感動を覚えた様子はありませんでした。親に似て愚鈍な感性しか持ち合わせていないせいなのかとも思いましたが、おそらく(それもあるでしょうが)、わが子たちは金子みすずの紡ぎだす世界をイメージするだけの原風景を持っていないのでないかと思います。
もし、そうだとしたら、これはある意味、「感性が愚鈍」である以上に忌忌しき事態なのではないかと思いました。海や川に魚がいること、カブトムシが森にいること、寒い朝には池に氷が張り、軒にはツララが下がることなどなど。ある時代までは当たり前だったこうしたことが、現実の風景はもちろん、さまざまなメディアを通してすら脳裏に住まわせることができない子供たち。もはや現代において金子みすずは誕生しえないのではないでしょうか。
あの時代だからこそ、金子みすずは金子みすずたり得たわけです。そして、同時にあの時代だからこそ、彼女は死を選ぶしかなかったのです。
私たち大人は、何か考えなくてはいけないような気がします。詩情を生む風景を持った時代と、詩情をもった人間が生きやすい時代。人間の英知をもってすれば、その両立は難しいことではないだろうに。
「金子みすずworld」 (彼女の生涯が詳しい)
「ジュラ出版局」 (金子みすず関連の書籍が多い)
子供を詩情豊かに育てるなら、やはり昔話がイイ!
「コノコノびでお」
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